大きなまるい月と、図書館に棲む蝶。

予告から(【手帖】本屋大賞「超発掘本」の衝撃 - 産経ニュース)少し気にしていた。

二階堂奥歯「八本脚の蝶」(ポプラ社)の編集者である斉藤尚美さんからこの度の本屋大賞「超発掘本」選出を受けて新しい帯を巻かれた本を譲り受けた桑原聡さん(産経新聞文化部)が読み終えての衝撃を綴られている。

【手帖】読書とは、毒を喰らうこと(1/2ページ) - 産経ニュース
(桑原聡・記)http://www.sankei.com/smp/life/news/160918/lif1609180033-s1.html

(略)そしてその中から1篇の言葉だけを選ぶとしたら、それはボルヘスの「バベルの図書館」にある次の言葉だという。

 《宇宙は、真ん中に大きな換気孔があり、きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている》

 哲学と幻想文学に耽溺(たんでき)する奥歯は、「バベルの図書館」という迷宮に移り住もうとするかのように、2003年4月26日未明に飛び降り自殺をする。25歳だった。日記の最後に奥歯はこう記している。《二階堂奥歯は、2003年4月26日、まだ朝が来る前に、自分の意志に基づき飛び降り自殺しました》
 本来の読書とは、毒を喰(く)らうことでもあると、改めて思い知らされる。そう考える者にとって、本書は危険だが、きわめて魅力的な読書案内だと思う。「読書とは栄養を摂(と)るためのもの」と考える者は近づかないほうが無難だ。


新聞の記事の基調というものがそうさせるのか、それとも別のきっかけがあるのか、上記の記事を読んでいてある懐かしい既視感を覚え、ああ、この人も同じ彼岸の人になったのだなあと、ただの他人のくせにまるで成長を見守るかのようなおかしな感慨を持った。

今はなき人形の専門誌、ドールフォーラム・ジャパン(通称DFJ)で連載された天野可淡に縁のある方々を訪ねたインタビュー『可淡疾走』。第四回の吉田キミコさんの回で、可淡さんが亡くなられて吉田さんがお通夜に行った帰りに「車で五日市街道を行くと、真っすぐな道で両脇に木立が並んでて、真っ正面に満月の大きな月が出ている」。

「ああ、ウサギのいる月に行っちゃったんだな」って思いました。そういうふうに思い込んで、何か安心したというか、安らいだみたいで。死んじゃったということを聞いたときの悲しさはね「もう、どうしてくれるんだ」っていう感じでしたけど。それ以来三年くらい、月を見たら「可淡ちゃん、私も頑張ってんだよ、見ててよね」っていうふうに、月に話かけるようになったんです。

可淡さんは、もし死んだら、自分は地獄を舞う蝶になりたい、と、ふと言ったことがあるそうだ。

一方で東大寺にある八本足の奇形(多肢)の蝶を(むくむくとした可愛らしさと、間違いが間違いを呼び伝言ゲーム式に不思議な姿が生まれる古来の怪獣になぞらえて)愛した奥歯さん。(http://homepage2.nifty.com/waterways/oquba/note5_p7.html 2002年8月29日(木)の日記を参照)

この蝶という言葉の上で交差する二人の人物について長く考えている。


引用記事の
“「バベルの図書館」という迷宮に移り住もうとするかのように”

という喩えは、私にとって『月に行ってしまった可淡さん』と同じくらい『とてもちょうどよい』場所にしっくりときて、こうした落ち着いた言葉が生まれるだけの年月が、世間のほうには流れているのだなと思う。

(読みようによっては、夭折を称揚するかのように生きた──うろ覚えです──という『エロティック・ジャポン』アニエス・ジアール〈河出書房新社〉の可淡さんに関する記述についてくらいには堰き止めにかかりたくなる記事かもしれないのですが、バベルの図書館についてはついそれは良いかもな、と思ってしまいました)

蝶は魂の化身とも呼ばれ、季節毎に生まれて家々の庭やベランダに訪い来ては、亡くした人を持つ人の心を慰めて、また去って行く。

肉体を離れ、存在として捉えられなくなった人たちがどこへ行くのか、またそれはその人というコードを保持しうるのか、今の私には分からないけれど、心の内という世界にその人たちの住むimageが、ひとときでも拡がるならば。
その索引が少しでも怖ろしくない場所になるのなら、いいなと私は思います。



(既視感を覚えたのは、天野可淡の没後少ししてから新聞に載った追悼記事の語調からかもしれないと思います)

※DFJのバックナンバーを漁ってみたい方は 珈琲舎 書肆アラビク へ在庫のお問い合わせを。
※編集人の小川千惠子さんは現在羽関チエコさんとして(大)活躍しています。
「第二回みそろぎ人形展」開催中です。
マリアの心臓 天野可淡展第三章「鈴虫之記」第一章、銀座にて会期限定開催中。
※アマゾンなりのリンクを(広告収入はつけません)貼るかどうかは私の体調次第です……ヨボヨボ

眠れずに迎えた朝に

雪雪さんの「醒めてみれば空耳(2016-09-01)」を読んでよりぼんやりと反芻したり反省したりしている。

私はここまで細密に言葉を選んで書くことはできない。
なぜなら書くことを怠ってきたからだ。
怠っていなくても、読み取れる部分はかなり違ったのではないだろうか、とこの度は思った。つまり距離をうまく保てないのだ。
以下ネタバレます。




欠けているもの、抜けているもの、そこにあるはずとさえ気が付かないほど当たり前にあるもの。
そういうものを伝うように今村夏子さんの「あひる」の中を歩こうとすると、あるところで手がどこかへすり抜けてしまう。

でも家の中部屋の中目を凝らしても、そこにはあるべきと言われるものはあるのだ。

そういう描き方ができる。
盲点、名前のついていない少しの悲しみ、ほんとうのことを言う子どもが来ても、反射的に守ろうとされるのはそれまでの「大きな悲しみの去った世界」。

自分のアシをおそらく持てない主人公。
長い長い引き伸ばされた夢。

勝手に英雄になり帰ってくるであろう兄と、それでも決してその家族を救わないであろうと予感される小さな命。

私は主人公がやっと本当にのりたまを見送ることができた、その死を知ることができたシーンがとても好きだ。

それでもその死は、代補されてしまうのだけど。
自分のしなかったことを感謝されるのりたま。
それでも葬送のささやかな儀式はとても美しく描かれ、そこに嘘はない。

突然やってきては名前をもっていて真実を言い当てて、それでも呪いは解けたりしない世界に踏み込んできた女の子の名前が、懐かしく感じた。

開放の予感なく閉じる物語の主人公に私は何も祈らない。しあわせというものがどんなものとして彼女につかまれるのか、私は知らないからである。

青_1999


セイ
あお
セイタカアワダチソウ

アオイ色
青い色
いろめきたつ
タチバナ
中道を行く
砂煙の立つ
土埃の立つ
乾いた夏
目も上げられぬ
日光
焼けつく
嫉けつく
付け焼き刃の
想い
想念は
熱に溶け
夏に解け
嫉かれて消えて
それはなかった暗箱
の底へ
突き落とされる
白日のもとで
殺されたカゲロウ
蓋をした箱の底
低い声で唸り続ける
振動
カタカタ
あけろ
あけろ
白日はあきらかに
あきらかな
命を好み
引き上げられる刹那
引き伸ばされる刹那
刹那の快楽に
天高く飛ぶ永遠の子
溶けて落ちる
夏の効用
草の陰は濃く
夏の闇もまた濃く
乾いたヒル
湿ったヨル
熱の思いに満ちた空気を
身に受け止め
すべての思い
叶えるといい
刹那の魔法
刹那の邪法
闇の濃いうちに
いちにちの命のカゲロウ
小さな羽音生み出す振動
燃える命
摩滅した感覚に
見過ごされ
殺され果てる
ものとせぬ
踏みとどまれ
踏みとどまれ
日々の闇
人の闇
闇は見ずともそこにあり
目隠し鬼さん
手の鳴る方へ
その音はおまえの心臓
その鼓動
手の鳴る方へ
手の鳴る方へ
手の鳴る方へ

ほどけるまでの、長い、時間。 2003年01月23日

ほどけるまでの長い時間
2003年01月23日(木)02時57分58秒



こんばんは。
明日はお休みなので夜ふかしをしている私です。


 悲しみのただ中にあった頃、私は「それ」以前の自分の明るさや、失った人との暖かい思い出などを、すぐには糧にはできませんでした。
 どんなにイメージをひらこうとしても、現在との落差を感じてつらくなったり、恐ろしい事やつらい事が頭に割り込んで立ち現れてきて、私がする自分を浮上させようという努力は、何度も壁にぶち当たってこなごなに砕けました。
 
 苦しみと、幸せは、やっぱり比較できない。というのが私の実感です。
 
 比較する事がとても苦しい。
 だれかより幸せなはずだから苦しんじゃだめだとか、つらいことよりも暖かかった思い出を取ろうとしても、赤子の泣き声のように懸命に、苦しみは私の関心を、意識を割くことを、求めつづけていたように思います。

 私は始めその叫びの真ん中を見据えつづけ、どんどん具合を悪くしていきながら、それを見つづけました。

 そして何度目かの波に乗って今度は右手だけを外へ出し、明るいことを覚えなおし、花の顔を覚えなおしました。

 二本の木を育てるように、引き裂かれそうな気がしながら、左手の苦しみも右手の喜びも、置き去りにしないようにとばかり思いながら日々を過ごしました。

(どちらかの実感でどちらかを撃ち抜きたい気持ちも、いっぱい感じながら)


 長い長い時間が経って、日なたの夕方にふと初めて深く息をついた日に、
 カウンセリングの場で、黙っていられることが……言えないのでなく、黙って、そこにただ座っていられることが……できた日に、初めて、苦しみの結び目のいちばん上がひとつ、ほどけたことを知りました。


 愛する人を失い、愛する人に注いだ自分の心をちぎられたような痛みが、長い長い時をかけて静かに、冷え、静まっていく日には、
 
 とても遠くから、
 日々のこと、
 小さな愛しい思い出は
 失われることなく
 貴女の胸に帰って来ることと思います。


 そしてその時が本当のさようならで、
 また本当に、亡くなった人が貴女とともにあるということのはじまりだと思います。


 どうか、苦しみ続ける御自身を、責める時には、そのことを思い出してください。




2003/1/R様へのメッセージより抜粋、改稿。

おそらく二千年の春、佃の本屋さんでの思いで

三月八日 

♪Laulu vita nova

『魔法飛行』からさかのぼり

ななつのこ』に手を伸ばす。

『魔法飛行』を本屋で手にとり、買おうか買わないか、迷っていた。

もちろんすぐにでも家へ連れて帰って読みたい本だということは一目見てから分かっていた。

けれど今連れて帰って、私の感情はちゃんとしているかしら、と思った。

そっけなく閉じた固い心で、この本をただ読み飛ばしてしまうのは、あまりにももったいなかった。

それでも私の心はとってもこの本を欲していて、レジへ持っていかないでは帰れそうになかった。

迷った頭のまま、足の方はレジへと勝手に向かっていた。

お店のおじさんがカバーを掛けながらふと言った。

――ああ、これはいい本を見つけたねえ。

私は嬉しくなって笑った。

このひとはなにか他にも書いているのかな?

見返しを見ながらおじさんは言った。

もうひとつ前にも書いているみたいです、これはその続編みたいですけれども、私まだ読んでいないんです。

ついそんなことを言った。

ななつのこ』、今度入れとこうね。

本についていた黄色い札にその題名を書き込みながら、おじさんは言った。

また来てくださいね

バイト初日の日、帰ってから、友人と会って、また帰った夕方、日も暮れかけて、青い頃

唐突に冷水を浴びせられたように、寒さと怖さがじわじわと私の体を冷たくしていく。

その影響からつと外れたところで、私は『魔法飛行』の続きをまだ読まなければいけないような、

続きを待っているような、奇妙な心持ちでいた。

読み終わってしまったのに、心に残って、そしてその物語の向こうのことまで考えてしまう、想像してしまう

それはその物語が私にとってとても素敵な、そして大切なものになったあかしであった。

そして本屋のおじさんの言葉を思い出した。

あの本屋さんの、あの本棚に

もう『ななつのこ』はならんでいるだろうか

私は寒さを連れたまま、もう暗くなりはじめた空の下銀色の自転車を駆って

水銀灯を数えながら、黒い水面を越えて、その本屋さんへ向かった。

自転車を降りながら私はお店の奥の、レジの方をちらとのぞいた。

おじさんはいなくて、お姉さんがいた。

少し残念に思いながら、本棚の前に背表紙を上に向けて並べてある新刊本に目を通しながら

か行の棚に近づいた。

既刊本の納められた本棚を、背表紙の色と『加納朋子』さんを探して、追った

けれどあっけなく、さ行へうつってしまった。

私はあらためてレジを見て、また本棚を見て、そっかあ、まだか、まだだよね、うん

などとちょっと寂しく笑いながら、『魔法飛行』はまだ売っているかな、と下の新刊本の並びに目を落とした。

そこには仲良く、二冊の、『ななつのこ』が、ならんで入っていた。

わあほんとうに入れておいてくださったのだなあ、とこっそり幸せになりながら

そのひとつをそうっと手にとった

小さな本の、ひかえめなおもさにもドキドキした。

たずさえたまま、他の棚をなにとはなしに眺め歩いた

そしてようやく、そっと、レジに差し出した。

あのもう一冊の『ななつのこ』は、誰の手に渡るだろう

そしてどきどきしながら

いま、まだ読んでいる最中なのです。

+++++++++++++++
ななつのこ
『魔法飛行』
加納朋子
創元推理文庫

下りていく

下りていく

手つかずの場所から刈りとってくる

わるい記憶の季節から

永遠のように小さく 心を動かした 思い出を

小石の中のきらめきのように かすかなものを

より分ける


そこは洞穴だ

水もあれば灼熱のマグマも煮えたぎる

年月を凝縮させた洞穴

(そこには黒い血もまたあるだろう)

下りていく 物理的な直喩はなしだ

下りていく