未来という感覚

幼い頃に、自分と分かち難い存在が若くして突然にこの世を去る。
わたしは子ども特有の回復力で日々のことに紛れ埋れ吸収し伸びて行く時間をすごす。
いちばん近しい家族でさえ胸を撫で下ろす。

理屈の通らない話だと分かっているのに、自分が長くは生きないだろうという感覚を高校生の終わり頃から持つようになった。
あるいは、成人後の、新しい社会へと出て行く時期にわたしが愚かで無邪気でいられたなら、その時期特有の加速によって、そんな感覚からは脱することができていたのかもしれない。

19歳の終わりの秋にわたしという人間は一度死んだ。
数年をかけてそれを知っていったというほうが、正確だと思う。
わたしを取り巻く人間関係も、一人の親友をのぞいて大きく変わり果てた。

自分というひとつのまとまり。
それは身体的な輪郭でもあるし、友達がある日突然いなくなったりしない、関係性の持続でもある。
それが徹底的に壊れることがあるということをわたしは知って、その残骸の中からわたしの核となるものを新しく拾い上げるのに何年もを要した。

普通の人にとっては毎日は過ぎて行くために過ぎて行く。
それをわたしのような人間のしている作業は、立ち止まらせる。
わたしにとって必要な言葉の密度は、他者にとって造り込みすぎた寄木細工のようなものと映った。
わたしは見送る。手を振る。未来へと向かう人々に。

わたしは今も未来という言葉を信じているけれど、それにわたしを加えることにためらう時間を身体のうちに持っている。
未来を思わないままに人よりも長く生きて、未来を信じないためになす事もなくいつの間にか死ぬような気もしている。

世界が変わってしまった経験をあなたはしたことがあるだろうか。
それまで有効だったあらゆる努力も尽き果てて、自分の歩き方を変えなければならなかったような、そんな経験を。

人も去り夢も去り現実のすべてはめまぐるしく去るけれど、ここからの未来というものがあるのなら、せめてそれを書き残そうと思う。