おそらく二千年の春、佃の本屋さんでの思いで

三月八日 

♪Laulu vita nova

『魔法飛行』からさかのぼり

ななつのこ』に手を伸ばす。

『魔法飛行』を本屋で手にとり、買おうか買わないか、迷っていた。

もちろんすぐにでも家へ連れて帰って読みたい本だということは一目見てから分かっていた。

けれど今連れて帰って、私の感情はちゃんとしているかしら、と思った。

そっけなく閉じた固い心で、この本をただ読み飛ばしてしまうのは、あまりにももったいなかった。

それでも私の心はとってもこの本を欲していて、レジへ持っていかないでは帰れそうになかった。

迷った頭のまま、足の方はレジへと勝手に向かっていた。

お店のおじさんがカバーを掛けながらふと言った。

――ああ、これはいい本を見つけたねえ。

私は嬉しくなって笑った。

このひとはなにか他にも書いているのかな?

見返しを見ながらおじさんは言った。

もうひとつ前にも書いているみたいです、これはその続編みたいですけれども、私まだ読んでいないんです。

ついそんなことを言った。

ななつのこ』、今度入れとこうね。

本についていた黄色い札にその題名を書き込みながら、おじさんは言った。

また来てくださいね

バイト初日の日、帰ってから、友人と会って、また帰った夕方、日も暮れかけて、青い頃

唐突に冷水を浴びせられたように、寒さと怖さがじわじわと私の体を冷たくしていく。

その影響からつと外れたところで、私は『魔法飛行』の続きをまだ読まなければいけないような、

続きを待っているような、奇妙な心持ちでいた。

読み終わってしまったのに、心に残って、そしてその物語の向こうのことまで考えてしまう、想像してしまう

それはその物語が私にとってとても素敵な、そして大切なものになったあかしであった。

そして本屋のおじさんの言葉を思い出した。

あの本屋さんの、あの本棚に

もう『ななつのこ』はならんでいるだろうか

私は寒さを連れたまま、もう暗くなりはじめた空の下銀色の自転車を駆って

水銀灯を数えながら、黒い水面を越えて、その本屋さんへ向かった。

自転車を降りながら私はお店の奥の、レジの方をちらとのぞいた。

おじさんはいなくて、お姉さんがいた。

少し残念に思いながら、本棚の前に背表紙を上に向けて並べてある新刊本に目を通しながら

か行の棚に近づいた。

既刊本の納められた本棚を、背表紙の色と『加納朋子』さんを探して、追った

けれどあっけなく、さ行へうつってしまった。

私はあらためてレジを見て、また本棚を見て、そっかあ、まだか、まだだよね、うん

などとちょっと寂しく笑いながら、『魔法飛行』はまだ売っているかな、と下の新刊本の並びに目を落とした。

そこには仲良く、二冊の、『ななつのこ』が、ならんで入っていた。

わあほんとうに入れておいてくださったのだなあ、とこっそり幸せになりながら

そのひとつをそうっと手にとった

小さな本の、ひかえめなおもさにもドキドキした。

たずさえたまま、他の棚をなにとはなしに眺め歩いた

そしてようやく、そっと、レジに差し出した。

あのもう一冊の『ななつのこ』は、誰の手に渡るだろう

そしてどきどきしながら

いま、まだ読んでいる最中なのです。

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ななつのこ
『魔法飛行』
加納朋子
創元推理文庫