眠れずに迎えた朝に

雪雪さんの「醒めてみれば空耳(2016-09-01)」を読んでよりぼんやりと反芻したり反省したりしている。

私はここまで細密に言葉を選んで書くことはできない。
なぜなら書くことを怠ってきたからだ。
怠っていなくても、読み取れる部分はかなり違ったのではないだろうか、とこの度は思った。つまり距離をうまく保てないのだ。
以下ネタバレます。




欠けているもの、抜けているもの、そこにあるはずとさえ気が付かないほど当たり前にあるもの。
そういうものを伝うように今村夏子さんの「あひる」の中を歩こうとすると、あるところで手がどこかへすり抜けてしまう。

でも家の中部屋の中目を凝らしても、そこにはあるべきと言われるものはあるのだ。

そういう描き方ができる。
盲点、名前のついていない少しの悲しみ、ほんとうのことを言う子どもが来ても、反射的に守ろうとされるのはそれまでの「大きな悲しみの去った世界」。

自分のアシをおそらく持てない主人公。
長い長い引き伸ばされた夢。

勝手に英雄になり帰ってくるであろう兄と、それでも決してその家族を救わないであろうと予感される小さな命。

私は主人公がやっと本当にのりたまを見送ることができた、その死を知ることができたシーンがとても好きだ。

それでもその死は、代補されてしまうのだけど。
自分のしなかったことを感謝されるのりたま。
それでも葬送のささやかな儀式はとても美しく描かれ、そこに嘘はない。

突然やってきては名前をもっていて真実を言い当てて、それでも呪いは解けたりしない世界に踏み込んできた女の子の名前が、懐かしく感じた。

開放の予感なく閉じる物語の主人公に私は何も祈らない。しあわせというものがどんなものとして彼女につかまれるのか、私は知らないからである。