眠りがちな精神が目を覚ましていられる短い時間
おはようございます。
(深夜1:42)
心が暖かいと色んなものへの感度が上がって、世界が肌理細やかに見えます(触れます)。
どん底に心が冷たい時にも、世界の別の相貌について感度が上がることがありますが、それは多くは、この日記のような小さな星に記しておいてもいつかやっと誰かが訪れてそれに触れる前にネットから消えていたりするような、伝導率の低い出来事を多く捉えるタイプの感度のように思います。
いま私の心は珍しく持続的に暖かく、冷たい心の時には取りこぼして、防護ネットの間に消えていくものたちを思い出して拾うことができます。
おそらくこれは短期記憶を長期記憶にするために必要な温度なのだといまの私は思います。
それを私はしばしば失ったまま走り続けます。
とてもゆっくりと。
チョコレートの甘み、溶けやすさの具合のちがい、10代の頃に見た書店の本棚の、所定の位置の記憶、まだ読んでいない本たちの記憶、心の位置、想うことの位置、そしてずっと想っていくだろうといまの私が思っている、ある感情。
けれどやっぱり、いつかには、書き込んだ文字はいつのまにか古びて、そこにあった躍動を私は失うのです。
想いは、変化していきます。
それを丸ごと包むには、私が21年ほど避けてきた、物語が必要なのです。
衣子(仮名)さんの家には宝物が眠っている、と訪問のカウンセラーさんに言われました。
それは(その日見て頂いたいくつかの)本のことで、カウンセラーさんは、アガサ・クリスティーが子どもの頃空想好きだったことをラジオの英語講座で聴いた話をしてくれました。
私は先日初めて買った初クリスティーの「スタイルズ荘の怪事件」(ハヤカワ・クリスティー文庫)が、本の崩れ止めになっていることを思い出してカウンセラーさんの背中側からそれを取り出して見てもらいました。
私も(きっとクリスティーには敵わないけど)子どもの頃、空想好きでした。と照れながら話しました。
いまは上手く描けないのですが、その時に私は私が本来好きだった「物語」のことを思い出すことができました。ひとつの嘘もなく他者が照らし出してくれた私の一面を、時々私は強く記憶に残します。それは自動的です。
このぶぶんの雲が晴れていることが、どのくらい続くのかわかりませんが、端緒だけでも残しておきたく、久しぶりにブログを書いた次第です。
まだ書き足りない衣子より。
2:09