「自殺と想像力」

『今年、自殺が急増しているというが、考えに考えて自殺を選ぶ人たちの悲劇は、そこに到るまでに懸命に働かせただろう想像力を、自ら閉じてしまうことの悲劇でもある。初めから想像力など一切捨てたかに見える政治家が容易に自殺しないのに比べて、物を考えるが故に死を迫られる市井の人たちは、あと一歩の想像力を自ら捨てることはないと思う。なぜなら、悲劇を想像する力は、希望を想像する力でもあるだろうからだ(読売新聞1999年9月13日付夕刊、8面、高村薫「座標軸」より引用)』



中学生の頃、学年末に配られる冊子にペンネームで小説を投稿した。前年に短いお話が掲載されたので、重ねて挑戦してみようと思ってのことだった。
性格は快活なのだけれど宙に浮かぶ、幽霊のような女の子が、主人公の中学生の男の子になぜかくっついて回る。特に筋書きも考えずに書いていく中で、主人公の友人の自殺の一報が届く。お通夜の中でささやかれる心ない言葉。死にたくて死ぬ人はいない、と既に死んでいるお化けである少女は言った。
強く意識することはなかったけれど、その頃から私の死への、そして「自殺」への関心は、途切れることなく今も続いている。

中学生の頃に強く疑問に思ったのは、自殺する人が特例であるかのような報道のされ方だった。
「彼彼女にはこういういわれがあって、死ぬのもおかしくない人だ」
そういう風に取れる報道に、疑問を感じていた。
自殺した人を「可哀相な特別な人」と名付けることにより、死を考えるまでに追いつめられた経緯は何だったのかということを考えずに済むように、原因と結果だけを簡単に図式化してしまっているように思えた。

私はこれまで自殺を「軽蔑する」と書いたり言ったりしてきた。
それは今思えば自分がそうなる可能性へのおそれ、そこへ陥らないための呪文のようなものだったのかもしれない。
それでも一年前までは全く死にたいと思うことはなく、自殺してしまうことが「どうして」か分からずに気になり続けた。その「分からない」というのは、心境が理解できないというのが半分、どうして死んでしまったのかという見も知らぬ人への無念が半分だった。

今は快復への傾斜がきつく、私自身の死への傾倒を感じている。
死のうとしたことは一度もないが、生きようという気力にゼロで、通りものがきても反射的に生へ駆け出せるかどうかが危うい(こんなこと書いて心配かけると思うけれど私は大丈夫です。しぶとく生きますから)。
こうなってから分かったことは、死ぬ人が死を選んでいるのではないということだ。


テレビの短いニュースの中で、箱の中の人たちは「何があったのでしょう」と問いながら、けれどその問いはあらかじめなにかの答えを想定したがっているように見える。そしてそれを匂わせ、導き出し、考え得る範囲の結論を付けて安堵する。
とてもわかりやすく翻訳された「物語」は、いとも簡単に咀嚼されて、そして忘れ去られる。自殺は特例として片づけられ、問題点は相変わらず何も見えてこない。

こうして考え続けていると、自殺について考えている自分が何もないところにあたかも何かがあるように決め付けているようにすら思えて、問題点など果たしてあるのか、理由などなく人は死んでしまうものではないのか、という考えが何度も胸をよぎった。
今も私は明確な答えを得ることができずにいる。


テレビのニュースでは一方で命は尊いと言い「若者の命の軽視」を嘆きながら、けれどその情報の処理の仕方では命を落とした人が一人の人間であるということを何ら伝えきれない。いたずらに亡くなった人のことを大仰に取り上げるか、悲しい事件ですと一言で終わらせるか、どちらにしても死という、自殺ということ、一人の命の重み、そのリアリティが、自殺にまつわるニュースの中からはなかなか伝わってこない。死を選ぶ人間の、己の命の軽視を嘆くことで締めくくられるニュースはもうたくさんだと思う。

だれもその死の重みを伝えられない。
若者の命の軽視を「嘆く」だけで誰かがやって来て解決してくれる「どこか」の出来事のように。
そうしたニュースの繰り返しが、死を選ぶほどの重責が絶え間ないこと、自殺者が増えていることへの慣れを呼び、自殺という一人の人間の死を記号化してしまう。刷新されていくニュースは、重苦しい出来事を全て切り離し、あちらの出来事として流していく。
こうして批判する私も、ひとりの人の死を、あの短い時間のなかで、伝える方法が分からない。

それでもそれを、関わりのない「どこか遠くの出来事」として処理してしまうことはしてはいけないと感じる。それを「なかったこと」にしてはいけない。

敏感な人や、子供たち、想像力を持つ人たちは、そうやって流されていくものを、ひしひしと感じ取っている。だがそれは簡単になかったこと、見えないものにされてしまう。
それを見続ける者は神経質、心の弱いものとして、排除されていく。
実際に暴力行為で弾圧されなくても、そうして「おかしなものたち」として日常の流れに排斥され続ければ、確かに感じるものを嘘だと言われてその人間はどう感じるだろう。
心はやがて悲鳴を上げるだろう。

他人のことは分からない。
子供の気持ちだって世代の違うものには分からない。
それでも、言わなければいけない言葉がある。
声に出し口に出し、必ず伝えなければならない言葉がある。

自殺はけっして他人事ではない。
それぞれがそれぞれであるために見えるものを、言葉を惜しまずに、伝えていかなければならない。


(1999年9月13日-web日記より。論旨に沿って改稿。)


※追記するなら、これは当時のことで、今の時代となってはどうぞ全力で他人事として下さいと私は言うかもしれない。