呼ぶことができるためには名前が要る

起きようとしても起きられないあまりにも強い夢の中であなたの名前を呼んだ。あなたはどこにもいない。わたしがその名前に綻びを作り、どんな風に呼んでいたかその響きの閉じるところを忘れてしまってから。
だから夢の中でもわたしはあなたの名前を発音しない。
心の内側で強く呼ぶ度に象徴がかすかに浮かび上がる。
それは呼ぶたびに少しずつはっきりするけれどそれでもわたしはあなたを呼ばない。

夢から醒めて本当に胸が痛かった。
あまりに夢が強いので、目を開けていても目に入るものを材料に夢が勝手に綴られ続けるのをやめなかった。
動けず、両手で痩せた肋骨の中心を温めながら、あの時に、もっとちゃんと憎んでいれば、こんなところまで、無力感の玉突きの結果を持ち込むことがなかっただろうかと考える。
そして思う。わたしは憎んだ、と。
夢の中で何度も相手の首をはねに行こうと強く望むくらいに。止まらない空想の中で何度も相手の首をこの手で締めるくらいに。
(それは顔のおぼろげな加害者よりも、その後に残酷な仕打ちを良いことだと思ってした人たちに向かった)

人を憎むことがこの世界に持つことのできる面積はとても小さい。まっとうな手段では。
その深い感情を燃やし切るまで他人に付き合える世間というものは、最小の単位である家族であっても、友人であっても、存在するのかどうか危うい。
わたしの場合は失敗をし続けた。仕事としての上での仕事以上に真摯な傾聴と、残り少なかったわたしの最後までとっておいた友人の言葉ではないいなくならなさが、かろうじて繋ぎ止めてくれた生の上を、その痛手は何年にも渡って横たわっていった。
今も胸に残るこういう朝の物理的な痛みと、わたしの形の変化の中にそれは残っている。単に、剥ぎ取ればいいというものとしてではなく、分かち難い深さで。

憎しみを持ちそれでも生き続けることは、技術だ。
どこまでも冷徹にその時引く糸を選び続けるような、そんな技術だ。
憎しみの形は人それぞれに違うので、わたしの技術があなたのそれの役に立つのかどうかわからない。
それでもせめてわたしはそれを初めから無かったこととして、言葉を与えずに呑むことだけはしないと、思っている。



(”加害者”のことは今も何も感じないほどの憎しみの中に入るか、この人が誰だか私にはよくわからないという感覚ゆえに何の感情も向け難い、と思うかのどちらかしかない。そして私に良いことと思って残酷な仕打ちをした人たちの多くは謝罪をしてくれたために私はとても喜んでしまって彼らを許したけれど、彼らが、自分のしたことのためにその後の私がどんなふうにすごしたかを、知ることはない。その罪悪感と恐れのために、それらのことを彼らが分かち合うことはけっして起こり得ないことなのだ。私は、私を愛してもいない人たちの日常の上に私の人生を横たえることに喜びを感じないので、もちろんそれらのことを実際に望むこともない。あえて言うならば、今このように相手を無駄に責めず過剰に許さず書けることがはじめてなので、それを書き留めようと記したところ)


※「あなた」に対応するものは、今までもこれからもこの世に存在したことはありません。あの世にもたぶん存在はしない。

※2 悲劇はその強度を持って行為者を規定しようとするけれども、本当に悲劇なのはほとんどの場合において"加害者"が加害者には成らないということだと思います。
そのことの不可能性を認識することなく、"被害者"に感情移入し、あるいは加害者という存在を有るものとみなすことで、私たちはその出来事の一番の痛手を見逃すことになる、これは、どんなに世の中において犯罪や事件と認められた出来事の(被害者の)中にも包含されている不可能性です。


(1/2追記)